「うちらの代は歌が上手かったよね」という話題が出た。
その言葉に、少しだけ考えさせられた。
今の自分の視点で振り返ると、
技術的に見て「上手かった」と言えるかというと、
正直そうではなかったと思う。
母音はつながっていないし、
フレージングも弱く、
音程も安定していなかった。
ただ、それは誰かが悪いとか、
間違っていたとか、
そういう話ではない。
当時の私たちは、
歌う側も、評価する側も、
音楽的にはほとんど素人だった。
中学時代の音楽は、
理論や身体の使い方を学ぶ場というより、
決められたものを揃えて再現する時間だった。
だから
「一生懸命だった」
「揃っていた」
「ちゃんとやり切った」
そういう基準で
「上手かった」と感じるのは、
とても自然なことだと思う。
また、同級生の話では、
当時の下級生が涙を流して感動していた、
というエピソードも出てきた。
それを聞いて、
正直なところ、少し引っかかった。
というのも、
私自身が音楽の中で一番苦手なのが、
中学・高校でよく歌われる合唱曲だからだ。
正しい音程。
正しいリズム。
隣の人ときれいに揃えること。
それ自体は間違っていない。
でも、それだけを目標にした瞬間、
音楽は急に「作業」になる。
国語の教科書を
間違えずに音読しているような感じ。
あるいは、
一定の抑揚で唱えられるお経に近い。
整ってはいるけれど、
音楽としては、もう息をしていない。
少し前に、
合唱曲を歌っている動画で
「すごく上手」「感動した」と評価されているものを見かけた。
試しに再生してみたけれど、
正直、三十秒も耐えられなかった。
音程もリズムも揃っている。
でも、そこに音楽を感じられなかった。
自分でも驚くくらい、
思わず動画を止めてしまった。
たぶん私は、
「正しく歌っている音」を聴きたいのではなく、
「なぜその音がそこにあるのか」を感じたいのだと思う。
だから私は、
あの手の合唱曲を
「感動した」と言われても、
どうしてもピンと来ない。
ただ、それもまた、
間違いではないのだと思う。
音楽に何を求めるかは人それぞれで、
「揃っていること」
「大人数で一体になること」
に価値を見出す人もいる。
涙が出るほど心を動かされた、
という事実自体を否定するつもりはない。
それは技術の評価ではなく、
時間と記憶と感情の評価だから。
メンタルが歌に影響する、
という意見にも一理ある。
本番で緊張しないことや、
気持ちに余裕があることは、
確かに表現を助ける。
ただ、それ以上に大事なのは、
身体の使い方や、
音楽の構造を理解しているかどうかだと、
私は思っている。
感情だけでは音楽は成立しないし、
理論だけでも音楽にはならない。
メンタルは土台ではなく、
その上に乗るものだ。
一方で、
私は「人を育てる」という分野では、
完全に素人だ。
人間の子供を育てた経験はないし、
その大変さや視点については、
正直、何も言える立場にない。
だから、
音楽を「親目線」で見る感覚については、
向こうの方がプロだと思っている。
自分が中学生の頃に歌った曲を、
何年も経って、
自分の子供が歌ってくれる。
その感動がどれほどのものかは、
育てた人にしか分からない。
その瞬間に見える景色や、
胸に込み上げてくるものは、
私はたぶん一生味わうことがない。
だから、
その立場から
「あの頃の歌は良かった」
「上手かった」
と感じること自体を、
否定する気はまったくない。
評価軸が違えば、
見える景色が違うのは当たり前だ。
そこで正しさを競っても、
結局「だから何?」で終わる。
先日の飲み会は、
音楽の話をしているようで、
実はそれぞれが
自分の人生の話をしている時間だったのだと、
あとから気づいた。
昔、祖母に
「かなちゃんはクラシックを弾かないのね」
と言われたことがある。
当時は何も考えなかったけれど、
今なら、その一言の背景が分かる気がする。
今だったら、
親孝行みたいな形で
音楽と向き合えたかもしれない。
私はピアノ科ではないから、
クラシックを弾くことは、
たぶん一生ない。
でも、
歌うことはあるかもしれない。
音楽とか運動に関しては、練習して向上する以前の問題で
天性的な問題あるようです。天性といって事実を濁してますが
本当は禁句的なことなのです。
違うなって思う事を忌憚のない意見を言う場でない限りは仲違いになるのでやめたりするね…ある程度共通認識、知識が同じだとまだ議論できるけど…